トップに戻る

公民館の歴史

    公民館の歴史

 

 公民館は戦後の荒廃し混乱した社会状況の中で、新しい日本を築き上げるには教育の力が必要であり、その一つの核として公民館の設置が提唱され、郷土再建の拠点にしようとするところから始まりました。この公民館 設置の原点となったものは、当時、文部省の社会教育課長であった寺中作雄さんが打ち出した、寺中構想とも呼ばれる「公民館の建設〜新しい町村の文化施設」です。

 

  文部省は昭和22年から補助金を制度化し、全国に公民館の設置を奨励しました。そして昭和24年6月に制定された社会教育法の第二十条で公民館について次のように法制化されました。「公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、 学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする」

 

 地域のみなさんが、生涯を通じて、気軽に学習・文化・スポーツ・青少年活動・学習を行い、話し合い、考え合いながら研鑚する場所として、そして 人と人との交流が希薄になりつつある今、人々の触れ合いを深め、交流を図り、暮らしや地域を豊かにしていく学びの場として、公民館 の役割は、一層、重要になっています。 公民館は、単なる団体やサークルに部屋を貸す施設ではなく、住民が主体的にみんなで学び、学んだ成果を地域に広めていく役割もあります。

 

相模原市における公民館の発展

 

相模原市においては、昭和24年に法的整備が図られたことで、相模原町(当時)においても、同年10月に「町立公民館設置条例」が制定されました。当時は、地域住民の寄付や募金活動によって、各地域に公民館が設置されました。その後、各地域の開発・発展に伴い各地域に公民館が設置されましたが、当時は、独立した施設を持たず、小学校や市の出張所などに併設され、職員も兼務でした。

 その後、市の「公民館整備基本計画」に基づき、昭和44年には、上溝公民館が初めての独立公民館として完成しました。その後、昭和40年代から50年代にかけて逐次施設整備が行われ、昭和60年には、全地区(当時の本庁6地区と出張所管区)に独立公民館を持つようになりました。 その後、館区の分割を経て、平成10年から23公民館体制となりました。さらに、旧津久井郡4町との合併後は、32公民館に増えました。

大野北公民館に続く

トップに戻る

 

inserted by FC2 system